1997年11月

11月になれば、余裕ができると思っていたのに、急な出張があったりして、ちっとも余裕なんてできなかった。それでも、10月よりはよかったかな。もっと余裕がなかったのは、私が遅れに遅れて終わらせた翻訳のために作業を急がされた吉川さんや河原林さんでしょう。

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1997年11月30日(日)

11月は、セットアップ日記もふつうの日記を書かずに終わってしまうかと思ったら、最後になってインストールはまとめてしてしまった。さらに「つまらない日記」にも書くべきショッキングなニュースがあった。

私が産まれ育ったのは、東京都葛飾区青戸。実家は京成線青砥駅から約5分のところにある。住所は「青戸」だけど、駅の名前は「青砥」になる。

青砥駅は、十数年前に新しくなっていまは3階建てになっているが、その前はふつうの地上の駅で、開かずの踏み切りもたくさんあった。3階建てになって上りが2階ホーム、下りが3階ホームになったため、いまでは駅周辺の踏み切りはなくなった。

地上ホームだったころの青砥駅には、駅と直結した名画座があった。幼稚園のころは100円、小学校のときは300円で2本の映画を見ることができたように思う。ただし、この名画座はお正月のトラさん映画のときだけ、ロードショウとなって通常料金になる。

子供のころの私は、「映画の行く」=「青砥名画座に行く」だった。手提げ袋にお菓子をつめて、ジュースを水筒に入れて持っていくのである。そして、映画というのは2本でペアになっているものだと思っていた。一番印象にあるのは、タイタニック号の映画と「猿の惑星」が2本立てになっていたことかな。このときは青砥名画座はひどい込みようで、私は気分が悪くなってほとんど映画を見ることができなかった。このときに限らず、青砥名画座はそれなりに繁盛していた。

駅が新しくなったとき、駅と直結という状態ではなくなったが、映画館だけが昔の青砥駅の入り口のままだった。それが少しばかり侘しさをたたえていた。私自身も大人になって映画に行くことも減り、行くとしても都心のロードショウを見るようになってしまったが、青砥の映画館の建物は、私にとってちょっとした思い出の場所になっていた。

ショックな事件とは、青砥名画座が11月30日をもって閉館されたことである。映画館の最後の日、青砥名画座では「もののけ姫」をやっていた。雑誌には12月1日以降は「休館」とだけ書いてあって、閉館とは知らずにたまたま少しだけ早起きして観に行った。

入り口の「閉館のお知らせ」を読んだとき、青砥名画座がなくなるなんてことは考えていなかったことに気づいた。